2008年08月22日
7年ぶりの名誉審査員として山内一典が参加
ヒストリックカーをレストアしその出来映えを競うコンクールは、クルマを愛でるイベントとして世界中で催されています。しかしそこに集まる車両の出自やクオリティ、集積された歴史、イベントの洗練度といった点で、「ペブルビーチ・コンクール・ド・エレガンス」を超えるヒストリックカーコンクールはありません。
8月17日、ポリフォニー・デジタル代表の山内一典は、58回目を迎えた今年の「ペブルビーチ・コンクール・ド・エレガンス」に名誉審査員として参加し、“Polyphony Digital Trophy”というスペシャル・アワードを授与する栄誉に恵まれました。歴史ある同コンクールに新たに名誉審査員が加わり、賞典を授与するのは7年ぶりのことです。
「ペブルビーチ・コンクール・ド・エレガンス」が開かれるのは、アメリカ・サンフランシスコから海岸線沿いを100kmほど南下した同名の高級リゾート地。この地はゴルフの4大メジャー大会のひとつ、「全米オープン」の開催地としても有名ですが、「ペブルビーチ・コンクール・ド・エレガンス」はまさにこの名門ゴルフコースの18番フェアウェイを舞台として、毎年8月の第3ウィークエンドに開催されます。
このコンクールに車両出品を許されるのは、これまでの出品経験者か、彼らから推薦を受けて主催者から招待状を受け取った者のみ。出品車両は年代や車両によって仔細に分類されますが、スペシャル・アワードや栄えある“Best of Show”に輝くには、世界中の名ドライバー、デザイナー、ジャーナリストなどから選ばれた審査員の極めて厳しい考査に耐えねばなりません。
「いかに新車当時のコンディションに近いか」という基準で行われる考査は、ボルトの素材選定やシートのステッチにまで及び、その要求レベルは芸術作品なみと言われています。「ペブルビーチ・コンディション」という言葉が、ヒストリックカーの世界で「完全無欠」を意味することからも、このコンクールの厳しさと名声が理解できるでしょう。ちなみに同コンクールの審査員には山内の他、日産自動車常務執行役員の中村史郎氏やトヨタ自動車のデザイン本部常務役員平井和平氏も名を連ねています。
授賞車は世界最古、現存する唯一のプロトタイプ
こうした選りすぐられた宝石の中から、今年の“Polyphony Digital Trophy”は、1967年式のランボルギーニ・ミウラ P400のベルトーネ・プロトタイプに贈られました。 ミウラはもともと、ランボルギーニ車のプロモート用に作られたショーカーでしたが、1966年のジュネーブショーを飾ったベルトーネのデザインが圧倒的な人気を集め、市販化が決定します。受賞車はその市販化に先駆けて生まれたプロトタイプのうち現存する唯一の1台で、量産型よりも1インチ低い車高が特徴です。
この歴史的名車のオーナーはJ.W.マリオット氏。その名前からも分かるとおり、世界的なホテルグループ、マリオット・インターナショナルの創業者です。
1967年、彼はランボルギーニにかけあって当時発表されたばかりのミウラ、しかもそのプロトタイプ2号車を「新車」で購入します。それがこのクルマです。プロトタイプ1号車がその後テストで全損してしまったため、このクルマは現存する世界最古のミウラというわけです。しかも新車でマリオット氏が購入して以来40年、ワンオーナー、オリジナルコンディションが維持されてきた、まさに奇跡というべき1台でしょう。
いっぽうペブルビーチの大賞である“Best of Show”は、1938年式アルファロメオの8C2900Bツーリング・ベルリネッタ(Jon & Mary Shirley)が受賞しました。
ポリフォニー・デジタルは、今後も“Polyphony Digital Trophy”を通じて「ペブルビーチ・コンクール・ド・エレガンス」に関わりを持ち、かけがえのない自動車文化を未来に向けて残そうとする人々の営為を支持していく予定です。
【『グランツーリスモ』シリーズ・プロデューサー山内一典のコメント】
ペブルビーチにはすばらしいコンディションで数多くの古いクルマたちが集まっていました。普段は現代的なクルマばかりに接している私にとって、このイベントはクルマが生まれた時代を感じる良い機会になりました。
クルマが生まれたのは19世紀の終わりのことです。ずらりと並んだ古いクルマたちの重厚なメカニズムは、19世紀の終わりに人類が「鉄と火の時代」を生きていたこと、を今に伝えています。 そして、私たちが作っているゲームが生まれたのは20世紀の終わりのこと。20世紀の終わり、とはすなわち「情報の時代」の始まりです。
ペブルビーチ・コンクール・ド・エレガンスで私が感じたのは、『グランツーリスモ』は、100年を隔てた、その二つの時代と価値観を繋ぐ架け橋のような存在になれたらいいな、ということでした。私たちは、まだまだたくさんの仕事をしなければならないようです。





























